昭和52年08月23日 月例祭



 「天と地が一つになって喜び合うという、鶴亀の舞遊ぶようなおかげ」と言う事を頂いた事が御座います。天と地が一つになる。そこには鶴亀が前遊ぶようなおかげ。所謂めでたいおかげ、有難いおかげと言う事で御座いましょう。そういう天と地が一つになって喜び合えると言う事はどう言う様な事かと。愈々是が言うならば合楽の世界というのではないだろうかと思います。合楽、神様と氏子が喜び合う世界。あいよかけよでしかも喜び合う世界。そういう信心のまぁ理想郷と申しましょうか。
 そういう信心をお互い目指させて頂かなければなりません。そういうおかげの頂けれる手立てを、合楽では日々御理解によって教えて頂くので御座います。様々な生き方が御座いましょうけれども、ここにこういう絶対の生き方。ここにこういう間違いのないおかげの道があるということを、私自身教祖の神様の御教えを実証しながらそして、体験を又現しながらおかげを頂きながら、是を皆さんにお伝えをすると言う訳です。今朝からすぐそこに合楽食堂という食堂が小さい食堂が御座います。
 大変このホルモンの料理で有名なお店です。まだ椛目からこちらへ移って来るちょっと前の頃からご神縁を頂いた。お母さんが乳癌でもう医者も難しいです。まぁのるかそるか手術をしてみよう。もうその時すでに七十幾つだったでしょうかね。それで現在の主人であります所の中村さんが一生懸命当時の椛目にお参りを致しました。そして手術せんでもおかげを頂けれる信心があるならというので、もうお母さんが病院におる気色がしなくなった、とうとう病院を抜け出して逃げるようにして帰って参りました。
 さぁそれから又尚更一生懸命の信心をさせて頂いておる内に、もう本当に見事なおかげを頂いて、もう何ヶ月後には裏の小さい畑に出て、畑仕事するほどしに元気になりました。それから十何年間、九十何歳での長寿を全うし、先年亡くなられました。そう言う様な事がご神縁の始まり。段々信心のおくがへおくがへと進んで行く。一生懸命に打ち込んで信心を致します。二人の息子が居ますが。長男は今年から学院に行っていわゆる、金光様の先生になる稽古をまぁ、一生懸命致しております。
 家ではお母さんが、弟はもう家わかれしとられますから、お母さんが一人でその店をぼちぼちやっていっておる訳で御座います。信心の有難さが分れば分る程一生懸命ならなければおられない。そしてなら自分の長男をもうそれこそ、そのまま神様に奉げても良いと言う位に、又子供達もそれを願ってなら教会修行に入り、学院に行く事に成った訳です。そのなら十年余の信心がどう言う風にして成長していったかと思いますとね。もうそれこそ、当時の椛目通いであり現在のもうここの側ですから。
 もう朝昼晩お参りさせて貰う。ちょっとお客さん、お客さんに留守番しといて貰って、ちょっとお参りをする。朝参夜参りする。もうそれこそ近所の近所と言うが、親戚の人達やらはもう本当に中村さんが、もう金光様にぼうけてしもうちからと、言われる位にまぁ一心に打込んでの信心です。昨日もそのホルモンの料理である所の肉を沢山もって来た。ところがもう今までにない、もう言うならば屑の様な肉を沢山もって来た。丁度昨日の御理解が黙って治めるということであった。
 三水偏にム口と書いてある。もうこれが一番最高の治め方だという。三水というのは自然。言うならばそれがそのまま天地の働きだと見るのです。どう言う様な事が私の上に流れ付いてこうが起きてこうが、それを黙って治める黙って受ける。いやそれを合掌して受けるという生き方をまぁ、コンコンと昨日の朝の御理解に説いてあります。黙って治めると言う事がどんなに素晴らしい事かと言う事がまぁ説いてあります。
 もう普通ならこげんいかんとは使われんよというてまぁ、突き返す所で御座いましたろうけれども、昨日はその教えが一番に心の中に浮かんで来た。結局まぁ黙って受けた訳であります。所が昨日に限ってですね、ホルモンを食べに夜お客さんがその、「おばさん今日とが一番おいしかバイ」と言う人が何人もあったち言うんです。言われてみてから、はぁ今日私がこう普通なら使えれそうにもない肉を使っておるが、もう始めから祈りが込められてある。これは大した良い材料ではないのに。
 お客さんに差し上げるのですから、どうぞ神様おかげを頂いて、お客さんが喜んで頂いて貰う様にという祈りを込めて、もう切りもすりゃ造りもする出しもする。お客さんが何人もおばさん今日とが一番おいしかち言われた。それからふっとなら今日はどの位だん売れるか。ずっとその付けて見たとこう言うのです。所が晩言わば締めくくって見た所が、もう今までにかってない売上でしたというのです。もう親先生もう黙って治めると言う事。教えを守って頂くと言う事。いくら神様の教えでもこげな事は守られん。
 こういうことは出来んというのではなくて、それをね、今日はこの黙って治めるということに取り組ませて頂こうという気になったら、もう普通なら最低の材料を使って造っておるそのまぁ、そのホルモン料理がです。何人もの方からおばさん、今日とが一番おいしかごたるがちゅうて、その言われたとこう言うのである。そしてなら売上を見た所が今までにかってない売上でもあった。今日はもうほんとに朝からそのおばさんが昨日とはもうほんとにすみません。
 もうあんなつをもって来てから、今日はその代り一番をよかつもって来たバイちうて、今日は又見事その肉をもって来て頂いたというお届けが御座いました。もうこの信心はね、教えを実行するということがもう肝心要な事なんです。中々ね自分の都合の良い事なら誰でも実行するけれどもね、これは受けられないと言った様な事柄でもね、黙って受けるこれは例えばお商売だけの事ではありません。家庭の上に起きて来る様々な問題でもね、親が子、子が親を言うならば、目に余る様な事はあります。
 家の親父ばかりはとか家の子供はとかと言う事は御座いますけれども、それをなら自分の事としてそれを黙って受けていくという生き方。そこから何とも言えんおかげの世界が開けて来る。そういう世界を私は天と地が一つになって喜び合う世界というのではなかろうかと思うのですね。これは私共が創るのではない。黙って受けると言う事は、私共の信心なのですけれども、それから先に起きて来る所の言うならば、家の親家の子供がと思うておったのがね。
 言うならば家のお父さん、家の子供に限ってと言うように、親と子が信じ信じられる仲と言った様なものが、そういう黙って受ける信心から、もし生まれたとするならばです。そして親と子が感謝し合い、喜び合い、拝み合えれる世界が出来た、開けて来たならばです、それこそが天地がね、一つになって喜び合う時だ。夫婦ね、隣人全てがこういう拝み合いの世界。そこから合楽の世界が開けて来る。両方が楽しい。両方が有り難いという世界。ここでは私の事を亀と言うてお知らせ下さる。
 それでここに皆さんが合楽へ合楽へというて、こうお参りになる皆さんの事を鶴に例える。その鶴と亀とがですそれこそね、大きな松の木をバックにね。鶴亀の舞い遊ぶような場があそこに生まれるとするならば、これは合楽の世界であります。私と皆さんがほんとに親先生おかげを頂いてと。その信心の喜びをもってみえれる。その信心のその喜びと喜びが一緒になる。しかも親と子がね。神も喜び氏子も喜び、金光大神もの喜びじゃ、と言う様な信心が頂ける時に、おかげが受けらる時に。
 それを天地が舞い遊び、鶴亀が舞い遊ぶようなおかげ。今日あそこにお参りになっておられます小森野からみえる、高田さんという方が先程ここでお届けをされました。今日は、今朝からです大変そのまぁ、大変有り難いお夢を頂いたち言う。どういうお夢でしたかと言うたら。「親先生とこう一緒にご飯を頂いておるところを頂きました。はぁこれはもう親先生と一緒に御飯を頂いて勿体無いと思ったら、親先生が二階さん上がってから、あの二階から又おいでになった。
 それから二階に上がらせて頂いたら、今度は二階には赤飯が出してあった。またその赤飯をよばれておるお知らせで御座いましたと言うのです。」これは私と皆さんが一緒にままになると言う事だと思うのです。しかも唯ままになるというのではなくて、今日今申しますようにそれこそ祝いめでたい。生神金光大神の、天地金乃神様の信心をさせて頂いて。それこそ枝も栄える葉も茂ると言う様なおかげを頂かせて貰う。
 金光大神はそういう家繁盛子孫繁盛の道を教えるのじゃと言うておられます。これは私共もどのくらい聞いて来たか分からなかったけれども、そんならいったいそういう金光大神の教えられる家繁盛、子孫繁盛の道とはどういう道であろうかと。様々に思うても見たけれども分からなかった。金光教が始まって百十八年間皆がをそういう家繁盛子孫繁盛を願うて、信心をしてきたけれども家繁盛子孫繁盛じゃなってなかった。なら教祖金光大神が嘘を仰るだろうかというと、そうではないです。
 頂き方が間違っておったと言う事である。今合楽で言われる所の、合楽理念というのは、金光大神の教えられたその生粋の所をね、本気でお互いが信心の稽古をしようという気になれば、誰でもそれを行じて行く事が出来る。しかもそれは絶対の道が開けてくる。言うならば、ここに完璧の域に入った。完璧になったのではないけれども、完璧の域に進んでいけれる、言わば道がここに開かれて来た。だからその道を行ずる事によってです、絶対家繁盛子孫繁盛の道が約束されると言う事になる。
 ですからそういういわば、信心をお互い身に付けて行かなければいけない。それにはね、これは昨日から頂いておるようにその黙って治めると言う事の一つでも本当に実行できたら、こんなにみ易い事は黙っておりゃよかっちゃん。(笑)ね。人がどんなに馬鹿にしようが。どんなに損になる事であろうが。嫌な思いをせねばならん様な事であろうが。それを黙って受ければ良いのであるからこんなにみ易い事はないけれども、ならそれを行ずる気になってそれに取り組ませて頂くとです、中々難しい。
 昨日ビリグイから手紙が何通も参りました。その何通も参りました中に、あちらの末永先生がおかげを頂いておる所のご主人で、今お菓子をなさっておられる。そのお父さんが何十年前にあちらで道を開かれたけれども、直ぐ亡くなられまして、只小さい教会が出来たというだけで有名無実の状態になっておって、まぁ何十年振りで今度末永先生があちらに行った事になりました。もう行った途端から大変なおかげ。その方が手紙書いて御座います。もう只ただ驚くばかりだと。
 そのおかげを頂いておる事実をね、もうほんとにずっと羅列してこういう輝かしいおかげを頂いておるのですけれども。実際末永先生のその生き方というものを見ておると、どうもまぁまちっとこうあって貰たいと言う所が、目に付いて来たと言う事なんです。まぁ皮肉まじりとも聞こえるし、お礼のごともあるしまぁあちらの報告の様なふうにあるし、まぁ色々でしたけれどもと言うのは例えば、こう言う事を書いてあるんです。 
 昨日はそのあちらの家内でる公子さんからも手紙が参りました。もう3ヶ月振りに出した手紙ですから、もう行った時から今日までの事がずっと沢山。もう日々こういう問題がこういうおかげを頂いておるという公子さんの結論にです、結局私共が合楽で修行中の時分に合楽理念を聞き、分かっておったけれども、それがただ分かっておっただけでした。こちらに参りましてその合楽理念の尊い事素晴らしい事。これを思うただけでも心が開ける、道が開けると言う事が結論に書いて御座います。
 先日もどうにも胸にはばからない事が御座いましたので、お取次ぎを頂きましたら末永先生が、「お前のそういう時には合楽理念はどう説いてあるかな」と言うた。まぁけど本を開く訳ではないですけども、そういう時には、親先生は合楽理念はかく説いてあるぞと、頂いた途端に付いた物が落ちた様に、心が開けておかげを頂いたという事が書いてあります。不思議な事ですね。
 今日丁度高松順子さんが正奉仕でしから、今日は佐賀からそれこそ一団体参って参りました。もうほんとに次から次と聞き伝えて、その方が皆連れて一緒に参って来るんです。そして自分の所の御霊様の今日は、そのお祭りをして頂きたいという前から願いをしてあった。それをちょうど当番でしたから、その順子さんがまだ、教師の資格をとっておるでもない。今学院で勉強中なんです。しかも自分があのように体が悪いですから、もう立ったり座ったり大変なその難儀な事なんです。
 けれども、座ってさえおればその御用が出来る訳です。だから金光様の先生はもう座り大根と、金光様の先生は座りの良いのが良いのだと言われるように。もう座ったらもう身動きもせんで済む位な、おかげを頂かんならんという意味で、おかげを受けておりますから、もうその事だけで。」本部に学院に入れる時にはもうその事だけで私は押して、まぁ受けんと言う所を受けて貰って現在学院で勉強中なんです。それが今日はたまたま正奉仕の時に、そういう御霊のお祭りをせんならん。
 たらお供えを持って見えてその沢山な人を連れて参って来ておられる。それでも一生懸命神様にお縋りをした。一生懸命御霊様の御祈念をさせて頂いた。そしたらもう先生有り難い事にね、その御心眼にあの「蓮の花が音立てて聞く所を頂いたそうです。その又お礼を申させて頂きよったら菊のあの大輪の菊がもうこんなにそのあの中へこう曲がっております、その菊の花を頂いた。」で。
 その事をその空閑さんを申します。空閑さんにお伝えをさせて頂いてまぁ、始めの間は親先生が仕えて貰うと思ったら、修行生が仕えなさった。何となし心許ない思いであったけれども、一生懸命のその御祈念とそして神様から御霊様でこう言う事を頂いたと言う事を頂いて、素人でも感じられるような。素人でも分かる様なほんとに今まで御霊様がね、長年の間言うならば、心を開く事を出来ておられなかった。心を開くと言う事は、はぁ苦しい。苦しいと思うておる事がね開いた途端に心が楽になる。
 それを信心ではさとりと申します。御霊様の心が開けたそれは菊の花の様な信心。合楽のシンボルと言われる喜び久しいね。言うならば信心の喜びでいっしんで真で奉仕させて頂く時に、ご先祖の御霊様がお喜び下さった様子を聞かせて頂いてもう大変有り難い。今朝の事を今日はその、今日は十四、五名ぐらい参っておらましたでしょう。だから先生それをもう一辺あの先生の御理解を聞かせて頂きたいと言うてね、あの言われました事で御座いましたけれども。
 どういう自分の心の中に悩みがあっても苦しみがあっても、心が開けて来ると言う事はね、本当な事が分ると言う事なんです。今申しますそのビリグイの方からです、言うならあちらの総代さんともいい、例えばこの頃から大祭があった時には、その新田さんという方がもう一人でご直会何かをおかげを頂くという程しに、一生懸命打ち込んで下さる。そういう打ち込んで下さる先生がならもっと先生が素晴らしかったら、それがどう言う所が気に入らんかというとその、御祈念中に居眠りなさる。
 信者が参って来た時に居眠りをしなさる。それで先生に夜夜中へ一晩中御祈念しなさる様な事は止めて、その眠らんごとして下さいとこう言う訳なんです。例えて言うともう奥さんがもう今日明日というのを大きなお腹抱えておられる。ご信者の熱心な方が、最近その人はあるPL教の御信者さんじゃった。それが大変おかげを頂いて毎日参って来る。そしてお子さんを一人預かっていこう。一番上の一番悪さの信太郎君を連れて行って下さった。所がもう今日で二週間にもなるのに。
 末永先生達夫婦がです、行ってみろうとも言わなければ迎えに行こうとも言われない。もう私共から見ておったら、もう何と言う横着な事だろうかと言う風に見えるんだけれども、それを先生に言うたら「いいえおかげですよ」ち言わっしゃる。それがそんなに思い方が違う訳です。それとちょうど公子さんからも手紙もが来た。その事が書いてあるんです。信太郎こうやって預かって頂いて丁度五日ぶりに一辺帰って来ました。
 そしたらお父さんともお母さんとも言わずに、早う帰る帰るちうて帰ったげなけん是はもう安心と思うて、おかげと言うておる訳なんです。けれどもそれを隣におられる新田さんは、まぁよその家にその一番手の要るごたる悪そう坊主ば預けといてから二週間もほうからかして、あげなこつでよかじゃかろうかとこう。先生に言うたらはぁおかげのうと言わしゃった。そげな事でよかでしょうかというのがまぁ、信者さんの不満なんです。はぁなかその辺の信心の相違というものがね、そんなに変わって来る。
 心を開かせて貰う。だからそういう雰囲気がその教会内に出来ておると言う事はです、これは新田さんだけではなかろう。他の信者さん方の中にもそういうまぁ、ものが出来て来たであろう。それをおかげを受けた、有り難いと言いよる反面には、そういうものもあるだろう。神様にも、お願いしなければいけないと思うてです、私お願いをさせて頂きましたら、頂きますのがねあの、ほうずきですね、あのふうずきと言いますこの辺では。ご心眼に頂くんです。
 そしてお前はその事をお礼を申し上げとけば良いと、頂くんです。いわゆる信者さんが、ガタガタ言うたりしたりする。そこでなら教会長、又は夫婦がまぁ色々その事で苦しむ訳ですけれども、言わばもう揉まれて揉まれて揉まれ抜かなければ、中のじごが出ないというのです。改まらにゃ改まらにゃと言いよるけれども、中々改まられんのですけども、それがもうそれこそもまれた上にも揉まれていっておる内中が軟おうなって来る。そして中の根がそれこそね。ねぐりなりなさいと言うごたるふうで。
 こう綺麗にじごを出す事が出来る。あれでなら末永夫婦が良いと言う事ではない。改まった上にも改まって行かなければ成らんのだからそういう働きが今度は起こっておるのだから、お礼を申し上げて行けば良いというのです。と私が分かった途端に私の心の中にもまぁ不安の状態からお礼を申し上げる心だけにならせて頂く事が出来るです。言うなら言う事はいらん黙って治めて行けるのです。黙って治めねばならない事の内容を愈々神様に打ち向かって分らせて頂く時にですね。
 ならそこの合楽食堂の中村さんではないですけれども、普通で言うならばこんなものは受けられんのだけれども、親先生が今日も愈々一切を黙って受けようと仰るからね、損とか得とかもう、もう別にしてね黙って受けるおかげを頂かせて貰うた。それをつくる時も、お客さんに出す時にも神様にお縋りお願いをさせて頂いた。おばさん今日のホルモンが一番おいしかちうごたる、言うお客さんが何人もあってはっと気が付いた。それで一日をおいて付けて来たのを締めくくった所がその昨日の売上が一番多かった。
 口上の一つも出るかと思うたら出る事じゃない。返って一番そういう働きがね、頂けれるのが信心なんです。ですからそう言う事がです、いわゆるどう言う事でも言うならば、黙って受けれる治められる。天地金乃神と申す事は天地の中にあって氏子おかげを知らずと仰る。これは御理解三節の一番大事な所。氏子おっておかげを知らない。と言う事はです。例えばその皆さんの前に、苦い問題やら、暗い問題やらも起こって来るけれども、今までは、こんな苦いものはいやだ。
 こんな臭いものはいやだ、と言うておったけれども。神様の心が分かれば分かる程ですね、これによってじごを出させて頂くんだ、改まらせて頂くんだと。この臭いものによって、愈々胃腸が健全になるんだ。この苦いのが薬だと言う様な頂き方をさせて頂ける所にその苦いもの臭いものを言わば、合掌して受けられる。有り難く受けて行かれるというそういう手立てがです、合楽理念にはあらゆる角度から説いてあるのです。ですから受けられない所が受けられる
 。そういうおかげが受けられた時にね、その事に合掌して言うならば、普通では受けられない事が受けられた時に、初めて神も喜び氏子も喜びと言う事になるのです。天と地がいわば、喜び合う時になるね。これが分かったかと言う事なんです。それが分からせて頂いたという時なんです。そこに喜びが湧いて来るのです。天と地が一つになって喜び合う。鶴亀が舞い遊ぶ様なめでたいおかげとも成って来る。
 親先生とも只お願いをしておかげを頂いて、言うならば下で親先生と一緒にままになる。それが一段二階にもう一段上がらせて頂いたらそこには赤飯の用意がしてあった。言うならば、赤飯と言う事は祝い目出度いと言う事でしょうね。金光大神は言うならばね、そういう目出度めでたの若松様よ。枝も栄える葉も茂るというのではないか。金光大神は家繁盛子孫繁盛の道を教えるのじゃと説いておられますけれども。
 ならどう言う様な頂き方をしたらそういう繁盛の道に繋がるか絶対のおかげに繋がるかと言う事を私共は知らなかった。そして初めてここで合楽でその事がこう明らかにされて来た。しかもそれも聞いて頂く様にちった難しいごたるけれども、難しいからこそ楽しいのである。同じ楽器でも簡単にひけるものだったらそんなに楽しい事はない。それこそ難しければ難しい程、それを覚える事の楽しみというものが生まれて来るのです。信心は愈々嬉しゅう楽しゅう。しかも愉快にさせて頂けれる道。
 しかも天と地が喜び合い、しかも私共と神様がお礼が言い合えれる合楽の世界へ住ませて頂く所の、おかげの手掛りその足掛りを、日々ここではお話しによって皆さんに伝えておる訳です。だから皆さんがそれを本気で行じられる事に成って来る時にです。それが楽しいもの。それを今日は、その中村さんの今朝からのお届けを聞いて頂いてね、成る程こげなん、こんなもんどん売りよったら店の信用が落ちるね。こなんもんな向こうに押し返すと言うのでなくて。
 それを合掌して受けてそして合掌しながらそれを売り捌かせて頂く所からお客さんにも喜んで貰う。言わば算盤を取ったら何時もよりも売り上げが多かったと言う様なおかげに継ながって来るんです。さぁ明くる日の喜びはもう愈々有り難い。もうほんとに向こうも、昨日のはとても質が悪かったから今日は一番よかつをもって来たと言う様なおかげにも段々継ながって来る事になるのです。だから昨日一日の働きの中に黙って治めると神様がこういう働きを下さるんだとい事を今日は聞いて頂いたんですね。
   どうぞ。